水害

648 ~ 649

一位の寛保二年の水害は、地表よりの高さ(玅笑寺)三・三八メートル、赤沼の水位二一尺(六・四メートル)。潰家(つぶれや)は長沼の戸数の大半にあたる三〇六戸。長沼の死者一六八人。

 二位明治二十九年は、戌の満水以来の洪水である。赤沼で水位一六尺余(約四・八メートル)となり、長沼たんぼは千曲川の本流の様相を呈した。

 このとき『信濃毎日新聞』はつぎのような「水害惨況実見録」を掲載した(原文のまま抜き書き)。

 「七月二十八日号。長沼村の水害ーー大町床上一尺(三〇センチメートル)以上五尺位。赤沼床上六尺以上より一丈一尺(三・三メートル)。千曲川浅川この地に合流し、一時は海の如(ごと)くなりて、水は堤防を越えること六尺に及べりと。二十九日号。河原新田は堤防東北に廻(めぐ)り、水包(つつ)まり排水の途(みち)なきより、廿三日(にじゅうさんにち)、北方の堤防を二箇所切り開き水を払へ(へ)り。△被害の概略。道路破壊二千四百間(四・四キロメートル)。堤防決潰二一ヵ所。橋梁流失二八ヵ所。室屋浸水五〇八戸、流亡家屋七棟。潰屋は、全潰、半潰、物置等(とう)併(あわ)せ七六棟。三十日号。長沼の損害。大町五分五厘(りん)、穂保八分五厘、津野九分、赤沼悉皆(しっかい)(全滅)なり。△危機一髪。家内一同二階へ逃げ上りし処(ところ)、水は二階を浸すに至(いた)るも、逃げ途(みち)なく、屋根を破り、筏(いかだ)に乗りて逃げだしたるに、間もなく遺れたるよし。」