記録に残る千曲川改修工事には、慶長(けいちょう)十五年(一六一〇)入封(にゅうほう)の飯山藩主堀直寄、寛永(かんえい)十六年(一六三九)入封の飯山藩松平忠伹(ただとも)、正徳(しょうとく)元年(一七一一)入封の飯山藩主青山幸侶(よしとも)らによる浚渫(しゅんせつ)工事がみられる。幕府直轄(ちょっかつ)の堤普請(つつみぶしん)は、天明(てんめい)元年(一七八一)から四回おこなわれている。明治三~五年(一八七〇~七二)、安源寺(あんげんじ)村(中野市)の丸山要左衛門が中心となり、中野市栗林・大俣間の大蛇行していた千曲川を上今井地籍に新河川を開鑿(かいさく)直流させた。これで近辺上流地域の水害は軽減された。