一 寺子屋と師匠

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 『長野市の筆塚』によると、師匠は三二人いるが、そのなかで一番多いのは読み書き師匠の一九人である。

 小林松順 和算家、宮城流・関流寺子屋。?~文化(ぶんか)八年(一八一一)。赤沼。通称俊治。人保寺の山田荊石(けいせき)に宮城流和算を学び、のち江戸で藤田貞資に学ぶ。善光寺平に関流を最初に人れた人という。長崎で医術を学び帰国開業、算数の師範をし、門人は北信一帯から越後にわたる。善光寺奉納算額に銘がみえる。

 長沼広延 読み書き国漢。長沼神社神官。天保(てんぽう)十一年(一八四〇)~明治十七年(一八八四)。安政(あんせい)~慶応(けいおう)に教え、門弟五〇人。明治七年長沼学校教師。同年皇典研究所設立の先達者。

 武田諌 読み書き国漢。文政(ぶんせい)六年(一八二三)~明治三十五年(一九〇二)。穂保。神官。元治(げんじ)~明治に教え、門弟六〇人余。国漢の研究を深め『山陵史』を編さんした。

 田中行道 読み書き国漢。文化四年(一八〇七)~明治二十一年(一八八八)。俗名米蔵。号中節。江戸で儒学・剣道真揚流を学ぶ。安政~明治初年に教え、門弟三〇〇人余。明治七年赤沼学校教師。