俳人・医師。宝暦五年(一七五五)~天保五年(一八三四)。八〇歳。内町(穂保)。現須坂市日野村の佐藤家へ婿に行き、のち吉村家に帰ったが佐藤姓を名乗ったこともあるという。本名信胤(のぶたね)。字は子鵬(しほう)。別号正風院など。医名正益(しょうえき)(松益)、法橋に叙されている。俳諧は初め長野の戸谷猿左に学んだ。文化九年守田神社の入り口に芭蕉句碑を建てて『木槿(わくげ)集』を出版した。翌十年には九州久留米(筑紫高良山麓(つくしこうらさんろく))の桃青(芭蕉)霊神を勧請(かんじょう)して守田神社に祠(ほこら)を建て、その記念集『迹祭(あとまつり)』は一茶に編集を任せている。―今も猶とし/\花の台(うてな)かな 守田神社句碑―