昭和十七年(一九四二)に長沼の寺院の梵鐘(ぼんしょう)が応召した。戦争中の金属回収で、土蔵の鉄格子(てつごうし)・仏具・手あぶりなど、金属と名がつくものはみな応召した。味噌釜は共同作業用を一個残しただけで応召し、床置きや花器などの小さな金属類もすべて供出した。
長沼地区の日清戦争以降太平洋戦争にいたる戦死者は九一人であった。昭和二十年八月十三日に長野市は米軍機による空襲を受けて長沼からも見え、多くの人々が戦争の恐ろしさを体験した。この年「りんごの歌」が大流行したが、長沼はこのころ食糧難からりんごの「買いだし」が多くてかなりの収入があった。二十一年には農会が解散して農業協同組合ができた。ついで農地改革がおこなわれ、小作地が解放され自作農になったものも多かった。