安茂里(あもり)地区は、明治四年(一八七一)の廃藩当時は平柴(ひらしば)村・小柴見(こしばみ)村・久保寺(くぼでら)村・小市(こいち)村の四ヵ村であった。同六年の戸籍区は、四ヵ村とも長野村を中心とする第五四区に属し、大小区制では、四ヵ村で一小区を編成して第二三大区第一小区となり、小区扱所は久保寺村に置かれた。
明治九年五月三十日に、この四ヵ村は合併して安茂里村が成立した。合併の理由には、「村界が錯雑(さくざつ)して地租改正の作業に不便なためである」と記されたが、同十二年十二月には平柴村が、同十五年十月には小柴見村がそれぞれ分離独立してしまった。しかし、同十八年に安茂里村(久保寺・小市)・小柴見村・平柴村の三ヵ村を管轄する「安茂里村ほか二ヵ村」の連合戸長役場が久保寺区の西河原に置かれ、同二十二年町村制の施行によって、この三ヵ村は再び合併して安茂里村が誕生した。
三ヵ村を一村にするという県の諮問案に対して、平柴村・小柴見村の一部からは役場への距離が遠く、郡役所や県庁と方向が逆であるなどの理由から反対もあったが、四月一日、安茂里村が成立し、役場は字本堂(現在の安茂里小学校)に置かれた。戸数六四九、人口三三三四、耕作反別約七百一町であった。