『長野県史』の「遺跡地名表」によると安茂里地区にはきょう塚古墳など三九基の古墳が記録されており、地域はほぼ全域にわたっている。以前はもっと多く、旭山南中腹の弥勒寺地区だけでも「百数十基あった」と記録される群集地帯であった。開墾や宅地造成によって失われたものが多いと思われる。大部分は円墳であるが、葭水(よしみず)には合掌型の石室をもつものがあり、付近にはかつて積石塚とみられる小古墳が五、六基あったともいう。円墳の多くは五世紀ごろの有力な農民の家族墓だといわれる。このころには沢出口の扇状地や山麓(さんろく)の田畑で農業がおこなわれ、古墳をつくるほどの生産力があったと思われる。平柴の双子塚(ふたごづか)は、一つの円墳に二つの石室をもつ特異な古墳として知られている。また、平柴の浄水場付近からは五世紀後半のものとみられる銅製獣形(じゅうけい)鏡(市立博物館蔵)や円筒埴輪(はにわ)の破片が出土しており、前方後円墳があったと考えられる。大和政権とのつながりも考えられる。