小市郷

672 ~ 672

戸隠(とがくし)神社旧蔵の大般若経の奥書には、鎌倉時代の永仁(えいにん)七年(一二九九)「小河荘薗日輪寺(そのにちりんじ)の住房に於いて書き終えた」と記されていた。「薗」は小市(こいち)の地名で、現在の園沖団地のあたりといわれる。これによって、永仁のころは小市郷は小河荘に属し、戸隠山顕光寺の末寺の天台宗日輪寺(薗寺)があり、その住房になっていたことがわかる。しかし、それより前の文治(ぶんじ)二年(一一八六)の「庄々注文」には、「天台山領小市」と書かれており、小市は比叡(ひえい)山延暦(えんりゃく)寺の所領になっていた。小河荘の実質的な支配者であった戸隠山顕光寺が延暦寺の末寺となったとき、一時的に小市郷を延暦寺へ寄進したためではないかと考えられている(『市誌研究ながの』一号)。いずれにしろ、戸隠とはきわめて関係の深い地域であった。小市郷の郷域はほぼ近世の小市村地域と考えられる。小河荘は皇室領で、その範囲は、現在の小川村から長野市西部地区へかけての、土尻川沿岸一帯の上水内(かみみのち)郡西部山中であった、と考えられている。

 小市郷は古くから犀川の渡河地点で、交通の要地であり、ここからは馬神(まがみ)街道が戸隠へ通じていた。また室町時代には時宗(じしゅう)の蓮花(れんげ)寺があり、園沖地区に「れんげんじ」の地名が残っている。また、長沼にあった真宗浄興寺(現上越市)が永禄(えいろく)六年(一五六三)兵火にあい、一時小市に移っていた。