窪寺郷

672 ~ 673

文治(ぶんじ)二年(一一八六)の「庄々注文」には「天台末寺月林(がつりん)寺」とあり、月林寺もこの時期には比叡山延暦(えんりゃく)寺の末寺で、窪寺(くぼでら)郷はその荘園であった。窪寺は月林寺(または月輪寺)の通称であったらしい。窪寺郷の郷域は、ほぼ近世の久保寺村地域であろう。

 窪寺郷には平安時代から天台宗の月輪寺があり、西の小市郷の日輪寺と対していた。ここには平安中期の作とされる木造伝観音菩薩(かんのんぼさつ)立像(県宝)や古い破損仏が現存している。窪寺郷の地頭は、はじめ窪寺氏であったが、のち寛正(かんしょう)七年(一四六六)ごろ、小市(こいち)の小田切氏にかわっている。