西河原 窪寺(くぼでら)氏の居館跡は、東西約三十メートル・南北四五メートルの方形で、「殿屋敷」と呼ばれ、現在は畑になって、東と南に段差が残っている。東北に鬼門除けの諏訪(すわ)社があり、西北には窪寺氏の菩提(ぼだい)寺といわれる西運寺がある。付近一帯は城(じょう)と呼ばれている。
窪寺城跡は、居館跡のすぐ裏にある城山の山頂にあり、善光寺平を一望のもとに見渡すことができる。本郭(くるわ)の東に少し下がって二の郭がつづき、さらに空堀を隔てて三の郭がある。西は太田沢に臨む絶壁である。北は自然の鞍部(あんぶ)を利用して幅の広い堀が作られている。明治はじめの『町村誌』には、ここに二重の堀(中核土濠(どごう))があると記載されており、現在畑の西端にわずかにその名残をとどめている。
窪寺氏は滋野姓と伝えられるが、窪寺郷への定住は古く、すでに鎌倉時代中期の文永(ぶんえい)二年(一二六五)、善光寺の奉行人として窪寺左衛門入道光阿の名が見える。また建治(けんじ)元年(一二七五)の「六条八幡宮造営注文」によると六貫文を負担しており、当時善光寺以西ではもっとも有力な御家人であった。また、南北朝時代に南禅寺・天龍寺などの住持を歴任した臨済宗の名僧此山妙在(しざんみょうざい)も、窪寺氏の出身とする説が有力である。
応永(おうえい)七年(一四〇〇)の大塔(おおとう)合戦に、大文字一揆(いっき)の人びとはここに集まって守護小笠原長秀に対する対応を評議した。西部山中から善光寺平への出口を押さえていた窪寺氏が、一揆のなかで重要な地位を占めていたことが推測される。