小田切氏居館跡

676 ~ 676

小市(こいち) 松ヶ丘小学校の東北に接し、「屋敷」と呼ばれている。東西・南北とも四〇~五〇メートルほどの方形で、西は権現沢の急斜面に臨んでいる。北側には高さ二メートル余の土塁が東西につづく。南はゆるい傾斜で犀(さい)川をへだてて、川中島一帯を望むことができる。ここは小田切氏の居館跡と伝えられ、吉窪(よしくぼ)城がその要害城であったといわれる。小田切氏は佐久郡小田切から出た武士で、滋野姓海野氏の一族といわれ、大塔物語に名をみせる。小市郷の地頭として諏訪神社の頭役帳に名がみえるが、文正(ぶんしょう)元年(一四六六)には、東の窪寺(くぼでら)郷の頭役も兼ねている。また、犀川の南にも進出して「内後(うちご)」「於下(おしも)」にも館をもち、また、富竹方面へも勢力をのばしている。戦国時代にははじめ上杉方に属し、小田切駿河守(するがのかみ)幸長が葛山(かつらやま)城で討ち死にしている。小田切氏はのち武田・上杉に属し、その一流は徳川の旗本となった。