安茂里(あもり)地区には、江戸時代以前の銘文をもつ石造物が約二百基確認されている。
古いものでは称名寺に残る観応(かんおう)二年(一三五一)と大永(だいえい)四年(一五二四)の二基の宝篋印塔(ほうきょういんとう)がある。
旧大町街道沿いには、庚申塔(こうしんとう)・馬頭観音・地蔵・道祖神などが多い。小柴見(こしばみ)には万治(まんじ)二年(一六五九)銘のものをはじめ、三基の庚申塔がならんでいる。赤地蔵も二体ある。
眺望のきく平柴の阿弥陀(あみだ)堂や正覚院・安茂里小学校近辺には、彰徳碑や文学碑や筆塚が多い。文学碑は、阿弥陀堂の「夕焼け小やけ碑」、旭香園の浅井洌(きよし)歌碑、「ねんねのお里」詩碑、正覚院の句碑など数が多い。彰徳碑には、製造技術に尽力し安茂里の近代花火の草分けともいわれる藤原善九郎、貿易商として成功し安茂里小学校校舎建築に貢献した赤尾善治郎の像などがある。
西運寺境内の天明(てんめい)二年(一七八二)「寒念仏供養塔」や平柴(ひらしば)公会堂にある享保(きょうほう)十五年(一七三〇)「奉納地蔵尊大念仏供養塔」はいずれもかつての念仏講の盛行を物語るものであろう。正覚院境内の「順礼止宿(じゅんれいししゅく)一千人供養塔」(文化(ぶんか)五年・一八〇八)は、巡礼者に対する施行塔(せぎょうとう)として珍しい。犀川神社境内の「疱瘡(ほうそう)神」も近隣ではあまりみかけない。「野見(のみ)大神」碑は奉納相撲など草相撲の盛行を物語る資料である。
また、平柴にある二十六夜塔は愛染明王(あいぜんみょうおう)を祭るもので、江戸時代の末から明治のはじめにかけて盛んだった染め物業者の信仰の名残であり、犀沢の奥には白土生産業者による殉職者の供養碑がある。
犀北団地入り口にある「国役(くにやく)大明神」碑は、善光寺地震後築かれた国役土手普請の竣工にさいして嘉永(かえい)元年(一八四八)に建立されたものであり、西河原住沢の安永(あんえい)九年(一七八〇)建立の石祠(いしほこら)もその前年の土手普請のときのものだといわれる。犀川・裾花川にはさまれ、「霖雨(りんう)の時は二川暴漲(ぼうちょう)し、沿岸の地は為に耕地の損すること多し」(『町村誌』)と書かれた地区の人びとの願いがこめられたものである。