安茂里(あもり)地区は、近世のはじめまで、小柴見(こしばみ)村(平柴を含む)・久保寺村(窪寺(くぼでら)とも書く)・小市(こいち)村の三ヵ村で、いずれも松代領であった。しかし、慶長(けいちょう)八年(一六〇三)旭山が善光寺領になったため、平柴(ひらしば)村も山元の村として小柴見村から分かれ、三輪村の一部と交換されて善光寺領となった。分離前の平柴を含む小柴見村の石高は、慶長七年の「信州四郡打立帳」では一三〇石余だったが、「元禄郷帳(げんろくごうちょう)」では、平柴村六九石余、小柴見村一〇五石余となっている。平柴村の戸数は、最初は一一戸であったが、延宝(えんぽう)六年(一六七八)には一九戸、天和(てんな)三年(一六八三)には二七戸、正徳(しょうとく)三年(一七一三)には四〇戸と増え、人口も天和三年の一二九人から、文政(ぶんせい)五年(一八二二)には二七七人と二倍以上に増加している。江戸時代に山中にありながらこれほど人口が増えた村は珍しい。
分離にともなって、平柴・小柴見両村のあいだには利害の反することが多く、たびたび紛争が起こった。寛文(かんぶん)四年(一六六四)には、旭山をめぐる出入りから、平柴村のものは今後いっさい小柴見村のものとは交際をしないと申しあわせ、連判状を書いている。
旭山は、善光寺の「お花山」とも呼ばれ、用材や薪・松茸などをとる山として重視され、善光寺では山見役四人を任命して厳重に管理した。元禄(げんろく)十年(一六九七)には、「用木はもちろん松葉・下草・ごみ」をとることまで禁止され、「せめて下くずだけでも」と訴えたが、認められなかった。同十一年には松茸の盗み取り防止のため村中誓詞を取り交わしている。また、同十年の善光寺造営には、旭山からの用材の伐りだしに従事したが、手当(てあて)が支給されなかったため、平柴村では「世間並みより安くてもいいから多少でも手間賃を下さるよう」に願い出ている。また、平柴村は耕地が狭く、田は皆無で、正保(しょうほう)の郷帳にも「皆畑 旱損(かんそん)所」と注記されるほどであった。そのため荒木・中御所・市村など平坦(へいたん)部への出作りが多く、しばしば出入りがあった。
現在も善光寺本堂の向拝には「平柴村」の名の入った高張り提灯(ぢょうちん)がかかげられ、善光寺の開帳には、平柴区の役員は上人警護の役人として参加している。これは、旧善光寺領としての由緒にもとづくものである。