松代領であった三ヵ村の石高は、寛文(かんぶん)四年(一六六四)には小柴見村一〇五石余・久保寺村七七一石余・小市村三一二石余であった。このうち小市村は全部が藩の直轄地で、高札場があった。小市の渡しをひかえた交通の要地であったためであろう。小柴見村は村高の九九パーセントにあたる一〇四石余が小幡内膳(ないぜん)一人の知行所になっていた。久保寺村は九一パーセントにあたる七〇〇石余が知行地で、知行主は一五人であった。この状況は幕末までほとんど変わらない。三ヵ村それぞれに特徴的な知行地配分である。なお久保寺村は寛政(かんせい)十二年(一八〇〇)に、西河原・小路・大門・差出に組分けがおこなわれ、それぞれに村役人が置かれた。田畑の比率を見ると、久保寺村ではおよそ半々であるが、小市村・小柴見村は田は総高の約五分の一、平柴村には田がまったくなかった。この比率も近世を通じてほとんど変わっていない。山沿いの傾斜地ではしばしば干害にあい、また、犀(さい)川・裾花(すそばな)川の沿岸部や沢沿いでは洪水のために被害を受けることが多かった。
近世のはじめ慶長年間に、裾花川の流路が白岩の下から南へ瀬直しされたために、犀川の流路がしだいに南へ後退した。そのため犀川南岸の丹波島村などの土地が犀川の北にも残り、両村のあいだにしばしば境界争いが起きている。寛永(かんえい)十一年(一六三四)・元禄(げんろく)六年(一六九三)の記録が残るが、宝暦(ほうれき)六年(一七五六)には一応落着し、境界塚をたてている。しかし犀川をめぐる境界紛争は近年までつづき、明治の『町村誌』でも、安茂里村と四ッ屋村では食い違っている。犀北団地・狐島など犀川以北の地域が、長野市の更北支所から安茂里支所へ管轄がかわったのは昭和四十二年(一九六七)四月のことである。境界争論は裾花川をへだてた中御所村とのあいだにも起きている。