旭山は、大本願・大勧進からそれぞれ二人ずつの山見役が任命されて管理していたが、領主の権力をかさにきて、しだいに旭山への入会権を制限していった。
貞享(じょうきょう)二年(一六八五)五月、山見役人が平柴(ひらしば)村の庄屋次兵衛方へ来て、山が荒れることを理由に、村中の鎌二三挺(ちょう)を集めて封印してしまった。このため平柴村では、十一月に訴訟を起こした。そして、「山が荒れるのは、山見役が従来は自家用にだけ認められていた手前薪札を数多く作って高価に売るためで、他村からの入山者が二〇〇〇人にも増えている。また、従来から平柴村の者は家作の用材を旭山から自由に切ることを許されており、山の口明け・口留めなどの期日の制限もなく山への出入りは自由だったのに、最近は制約が多くなり、そのうえ松茸番をしても手当も出ない」と訴えた。それに対して山見役は、「平柴村の戸数・人口が急激に増えたうえに平坦(へいたん)部への出作りも増えて、その出作りの分まで刈敷(かりしき)を取るからだ」と主張した。
訴訟に対して大勧進代官は、「平柴村の者が勝手に用材を伐ったことは不法であり、山の口明けがないというのは偽りである」として平柴村の肝煎(きもいり)ら七人に入牢を命じた。貞享三年九月に「朝日山定」が定められ、旭山への入山の制限がさらにきびしくなった。