犀沢山論

687 ~ 688

元禄(げんろく)五年(一六九二)、小市(こいち)村と上田藩領今里村とのあいたに犀沢山をめぐって入会(いりあい)紛争が起きた。四月三日、今里村のものが犀沢山の明神林で、用水にかかる橋の修繕の用木を伐っているところを、小市村のものが取り押さえて鎌を取り上げた。今里村では、二度にわたって松代藩の奉行所へ訴えたが、結果は小市村の主張が通った。今里村は納得せず、幕府へ訴え出た。訴えの内容は、「犀沢山は古来今里・四ッ屋・小市三ヵ村の入会山で、従来ここで用材を伐っており、小市村の行動は理不尽である。また近年小市村の者が入会地をむやみに開墾するので、山が狭くなり刈敷が不足して困る」ということであった。小市村の言い分は、「入会山の範囲は犀沢より東の地域であって、沢より西は小市村の内山で、他村の者は入れない、また小市村は犀川の川欠(かわかけ)で年々耕地が減っており入会地の開墾はやむをえない」というものである。

 元禄七年二月二十九日、裁許状がくだった。「西は犀沢、北は小鍋村境、東は久保寺山境を限り、三ヵ村の入会とする。現在ある畑はそのまま差し置くが、新規の開発は認めない。今後今里村の者は明神林での松木はいっさい伐り取ってはならない」というもので、入会地は犀沢より東とする小市村の主張が通った。