小柴見用水・久保寺用水

688 ~ 689

安茂里(あもり)地域の灌漑(かんがい)用水は、わずかな沢水利用を除いて、ほとんどが裾花(すそばな)川と犀(さい)川からの引水に頼っていた。小柴見(こしばみ)村では裾花川からの小柴見用水、小市村では犀川からの小市用水があり、久保寺村では犀川・裾花川の両方から引水してそれぞれ久保寺用水と呼んだ。

 小柴見用水は宝暦(ほうれき)六年(一七五六)ごろに竣工し、水田二〇石余を増した。久保寺用水は小柴見村の「寛永名寄帳」に、「慶長(けいちょう)十五年(一六一〇)窪寺新堰(せぎ)成る」の付箋(ふせん)があるので同年の完成と考えられている。おそらく裾花川を南流させる瀬直しにともなって築造されたものであろう。久保寺村ではまた、犀川からも取水し、犀沢を樋で通して久保寺村の田用水とした。長さ三〇町(三・三キロメートル)、幅五尺(一五二センチメートル)で、灌漑面積は八万五千余坪(約二八・一ヘクタール)であった。しかし、山と川にはさまれた狭い農地は、出水時には氾濫(はんらん)に悩まされ、干ばつ時には用水が不足しがちであった。明治四十四年(一九一一)に犀裾普通水利組合が発足し、久保寺用水は同組合の管理下にはいった。

 大正十三年(一九二四)の大干ばつを契機として、昭和五年(一九三〇)には善光寺平耕地整理組合が設立され、善光寺平一帯を総合的に見なおした用水計画が立てられ、新たに善光寺用水工事が着工された。犀川から取水する第一期工事は同十一年に完成し、犀北団地の西で久保寺用水へ分水した。裾花川から取水する二期工事は小柴見(こしばみ)用水を経て久保寺へ通水された。これによって善光寺平一帯の用水事情は、飛躍的に改善された。同二十八年には小田切ダムの建設にともなって、新たに他の用水組合と共同の取り入れ口が設けられた。