小市(こいち)地区の灌漑用水は、犀川から取り入れる小市用水に頼っていたが、明治元年(一八六八)の洪水により一丈(三メートル)余も河床が下かって、取水が不可能になってしまった。そのため、小市村では上流の吉窪(よしくぼ)村長刀(なぎなた)地籍から、繰り穴による用水路の開削を計画した。村では藩による普請を嘆願したがいれられず、難工事の末、同三年四月に完成した。総工費七八二七両余のうち六七二七両余は村方の負担であった。繰り穴の長さは七〇七間(約千二百八十五メートル)におよぶ。軟弱な地盤に加えて硫化水素ガスの発生地であり、いくつかの沢を横に通す難工事であった。しかし、竣工後も年ごとに河床の沈下がつづいたため、取り入れ口も上流へ移さなければならず、繰り穴もそれにつれていくたびか上流へ延長された。
しかし、昭和のはじめになると地盤関係もあって繰り穴の延長は不可能となり、そのうえ落盤がつづいて使用がむずかしくなった。昭和十二~十三年(一九三七~三八)の洪水によって犀川からの取水はまったく不可能になってしまったので、同十四年には電気揚水に切りかえた。戦後小田切ダムの建設にともなって、同二十九年十一月新たにダムに取水口が取り付けられた。