出作りと開墾

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安茂里(あもり)地区は山と川にはさまれて耕地が狭く、地味が悪いために、平坦(へいたん)地へ出作りするものが多かった。とくに平柴(ひらしば)村ではその傾向が強い。貞享(じょうきょう)二年(一六八五)の山見役への返答書には、「平柴村は荒木・中御所・市村に田地を買ったり小作に出たりしておよそ百二、三十石を耕作している」と述べており、元治(げんじ)元年(一八六四)にも一〇〇石ほどあった。そのため地元村民の反感を買い、耕作小屋が中御所村のものに焼き払われ、田へ石や砂を投げこまれるという事件も起きている。元禄(げんろく)郷帳の村高約六十九石余の約二倍が出作りだったのである。

 犀(さい)川は以前は現在よりも北を流れていた。それが裾花(すそばな)川の流路の変更によって、しだいに南下し、開沖(ひらきおき)・小市町南・洞田(ぼらだ)などが開かれていった。元禄年間(一六八八~一七〇四)の「信濃国絵図仕立帳」の「添目録」に枝村として洞田・差出(さしで)・西河原・小路があげられているのは、沿岸部の開拓によるものと思われる。石高は江戸前期の「正保郷村帳」に対して、維新期の「旧高旧領帳」では小市村で二四石、久保寺村で一〇一石増加している。河岸の開発や出作りのほかに山腹への開墾もおこなわれた。小市村と今里村の山論にも、小市村のものが入会地を開墾するために刈敷が不足して困ると訴えている。現在も山腹の急傾斜地には畑が多い。