安政三年(一八五六)の調査によると、小柴見(こしばみ)村の杏の木数はわずかに二十数本で、栽培者は一三人、杏仁収穫高は八斗七升一合(一五七リットル)である。翌四年には所有者二〇人で四石七斗二升四合(八五二リットル)と急増している。杏の栽培はこのころ普及してきたらしい。文久(ぶんきゅう)二年(一八六二)には、三九人で一〇二本になっている。当時の戸数の約八割が栽培していた。当時は杏は松代藩の専売で、主として杏仁として移出された。明治十年の安茂里村の生産量は杏肉上等一〇石(一・八立方び)、杏仁上等三石六斗五升である。
明治時代には、村内に約二万本の杏の木があったとされるが、昭和十年代に約四千百本、見積もり価格の最高は司十五年の約一万匕千円である。久保寺観音の縁日のころが満開になり、参詣者でにぎわった。