裾花の渡し

694 ~ 695

長野から西部の表山中(おもてさんちゅう)へ通じる唯一の裾花(すそばな)川の渡河地点は小柴見(こしばみ)村であった。古くから渡し場があり、「小柴見の渡し」とも呼んで、松代藩では七渡しに準じる扱いをし、近村から繋(つな)ぎ籾(もみ)を集めることを認めていた。水主は平水のときは一人、出水のときは二人とし、それでも不足するときは村のものを使うことに決められていた。ここは市村(いちむら)の渡しが船留めになったときの、小市(こいち)の渡しからの迂回路(うかいろ)であったために、公用の通行人も多かったので、小柴見村では、寛政(かんせい)十二年(一八〇〇)に郡役一人分の免除を願い出ている。明和(めいわ)六年(一七六九)、小柴見村では馬橋の架け替え普請をおこなうために、山中四六ヵ村から勧化(かんげ)金を集めた。「馬橋取替勧化帳」によると、募金の範囲は遠くは新町・上条(信州新町)・成就(じょうじゅ)・和佐尾(わさお)(小川村)・有旅(うたび)(篠ノ井)などの各村におよんでいる。

 しかし、裾花川出水のたびに橋は流されて、船渡しができた。架橋・流失・船渡しが繰りかえされたらしい。文化(ぶんか)二年(一八〇五)小市村仁兵衛が小柴見村の新船の建造を請け負っている証文がある。天保(てんぽう)十一年(一八四〇)には、「永久本橋架橋」の計画が起こったが実現はしなかった。

 明治八年(一八七五)、はじめて本格的な木橋として相生(あいおい)橋がかけられた。大正十二年(一九二三)長野駅・西河原間に、翌十三年には長野・安茂里・高府間にバスが運行を始めた。昭和十年(一九三五)鉄筋コンクリートによる永久橋になり、同十二年に橋から南へ新道(現小柴見-県庁線)が開かれた。


写真10 相生橋 このあたりに小柴見の渡しがあった