弘化(こうか)四年(一八四七)三月二十四日の善光寺地震で、安茂里(あもり)地区でもっとも大きな被害を受けたのは小市(こいち)村である。小市の上流にある馬神(まかみ)山は、半分ほどが崩れて犀(さい)川へ押し出し、村の方々に地割れができた。また、犀川上流の岩倉山も崩壊して犀川をせき止めたため、上流は山清路まで湖水となり、市村の渡しは徒歩で渡ることができたという。松代藩では湛水(たんすい)が決壊したときのために、小松原の天照寺山や小市村の水神宮の前に普請小屋を建て、連日数千人の人足を動員して、犀川の出口に土手を築き、馬神山の崩れた土砂を取りのぞく作業をした。しかし、湛水は四月十三日大音響とともに決壊し、高さ三〇丈(九一メートル)余りあった馬神山の崩落部を一挙に押し流して、小市村に流れこみ中町のほとんどが流出した。小市村八七軒のうち六七軒は屋敷がなんらかの被害を受け、そのうち三四軒は屋敷がすべて流出している。水田も半分以上は河原になってしまった。
地震後、藩では社倉の米を放出し、二〇日余にわたって炊き出しをした。のちに小市から川合新田にかけて国役(くにやく)による堤防が築かれた。現在小市橋の北に鉤(かぎ)の手に残っているのはその名残であるという。また、このとき流れてきたという大石が家々の庭石として残っている。