犀川・裾花川と沢出水

697 ~ 698

犀川・裾花(すそばな)川の沿岸に位置する小柴見(こしばみ)村・小市村・久保寺村は、毎年のように押し寄せる洪水と戦わなければならなかった。寛保(かんぽう)二年(一七四二)・宝暦(ほうれき)七年(一七五七)・明和(めいわ)二年(一七六五)・弘化四年などがとくに大洪水であった。洪水のたびに河岸の耕地が流された。いっぽう、裏山からの沢水は崩れやすい山肌を削りとって押し出し、沢筋の田畑は砂入りになやまされた。大雨による鉄砲水で人家に被害のおよぶこともあった。安政(あんせい)四年(一八五七)六月には、「久保寺村、沢水にて三軒流れ」の記録がある。

 寛保二年の戌(いぬ)の満水による被害は、犀川・裾花川の沿岸にもおよんだ。小柴見村では、裾花川の堰(せぎ)が二二〇間ほど切れて跡も見えなくなり、金山沢が抜け出て田を埋めた。寺沢も二〇〇間の堰を一面に埋め、沢通りの屋敷はほとんど砂入りになった(『松代満水の記』)。久保寺村は石高八五〇石余のうち二二〇石余が「川欠(かわかけ)荒地永引」、一八〇石余が「当成年一毛損毛」、合わせて四三二石余の被害があった。小柴見村では一一〇石余のうち六二石余で、いずれも村高の半分以上の被害を受けた。

 小柴見村では、天保ころからは裾花川の自普請をおこなっている。北村の裾花川端に三本の土手を築き、上河原に「九頭竜権現」を祭った。文化(ぶんか)五年(一八〇八)には、金山沢の流入口下流の葭ヶ淵(あしがふち)・一の口・米村(こめむら)にかけて国役土手が築かれた。堤防は江戸時代の中期まではそれぞれの村による自普請がおこなわれていたらしい。久保寺村では、明和五年に国役普請がおこなわれたが、安永(あんえい)八年(一七七九)の洪水で古い土手はほとんど流失してしまい、川欠荒所は小市村で二一〇石余、久保寺村四三六石余におよんだ。このときの国役普請の総経費は一二七両で、うち国役八五両余・藩負担三二両・残り九両が村入用であった。しかし、これも文化元年の洪水で決壊し、久保寺村では西河原沖の決壊箇所の修理に五五両、人足五五〇〇人を出している。しかし、またもや弘化四年の地震による洪水で流失し、嘉永(かえい)元年(一八四八)までかけて国役普請がおこなわれた。

 犀北団地の入り口には同年建立の国役大明神の碑がたっている。また、年代は不明であるが、伊勢宮の南にはいくつかの堤防の跡が残っている。水勢を弱め肥沃(ひよく)な土を残す霞堤(かすみてい)のあとだといわれる。


写真11 河岸に残る霞堤(伊勢宮の南方)