『長野市の筆塚』には、算額を含めて安茂里(あもり)地区の筆塚三三基が収録されている。犀(さい)川神社の神官や正覚院の住職など社寺の師匠が多いのは、各地域とも共通であるが、正覚院の寛永(かんえい)十五年(一六三八)の開設という伝承は、きわめて早い時期のものとして注目される。
安茂里地区で特色のあるのは和算である。正覚院には、安永(あんえい)十年(一七八一)に山田荊石(けいせき)の門人たちが奉納した算額と、享和(きょうわ)三年(一八〇三)に青木包高(かねたか)の門人が奉納した算額が保存されている。荊石のものは県内では二番目に古い。荊石は、久保寺村差出(さしで)の人で宮城(みやぎ)流を上布施村の北沢市郎右衛門に学び、この地方に和算を広めた先駆者の一人である。奉額した門弟四四人のうち一〇人は久保寺村の人である。青木包高も久保寺村の生まれで、荊石のあとをついで門人を教え、のち最上(さいじょう)流に転じた。奉額した包高の門人九人のうち三人は安茂里地区のものであった。また、平柴の公民館にも安政(あんせい)三年(一八五六)鈴木平吉郎らの奉納した和算額が残されている。安茂里地域は和算のとくに盛んな地域であった。