団地の造成と人口の急増

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長野の市街地とは裾花(すそばな)川一つへだてただけで、歩いても通勤可能な安茂里地区は、早くから長野市のベッドタウンとして開け、とくに東部の小柴見(こしばみ)・平柴(ひらしば)・差出(さしで)などでは、借家やアパートが多く、屋敷内に貸家をもっているものが多かった。安茂里地区の人口は昭和二十六年ごろから急増した。同三十四年には杏花台団地が造成され、ついで同三十六年には犀北(さいほく)団地が、その後四十年には伊勢宮、四十二年小市、四十四年園沖、四十七年平柴台、四十八年宮沖、五十二年小市南の各団地があいついで造成された。これにともなって人口は同三十五年から急増し、三〇年間に約三倍になっている。

 人口の急増にともなって、同三十四年には裾花中学校が、同四十七年には小市地区に松ヶ丘小学校が新設され、また山王・裾花両小学校へ通学区の変更もおこなわれた。同四十年には長野工業高等学校が市街地から移転した。