小田切地区は江戸時代、小鍋村、山田中村、宮野尾村、吉窪村の四ヵ村であった。吉窪村から深沢村が分村した時期があったが、明治五年にまた合併している。同九年五月三十日、小鍋村と山田中村が合併して繁木(しげき)村に、宮野尾村と吉窪村が合併して塩生(しょうぶ)村となった。塩生村は慶長九年(一六〇四)の草山年貢帳にある村名に復したのである。合併の理由として、村々の境や耕地が錯雑しているからとしている。その後、明治十六年九月十七日繁木村は小鍋村と山田中村に分離した。両村は山脈をもって分界されていて、地勢、水利、民情などがそれぞれ異なり、明治九年の合併以来不都合を生じていて、協議もまとまらず、一村で二村のようであったと分離の理由をあげている。