古墳時代

716 ~ 717

この時代の土器は須恵器(すえき)と土師器(はじき)のかめの破片、高坏(たかつき)の脚(吉窪(よしくぼ))など少量採集されているだけである。馬神(まがみ)古墳は、昭和六十一年(一九八六)長野県史刊行会によって調査された六世紀前半と考えられる前方後円墳である。犀(さい)川が善光寺平に流れこむ犀口を南に見下ろす標高五三九メートル、比高一八〇メートルの尾根上にある。墳丘の長さ約三一メートル、前方部の長さ一三メートル、幅一〇メートル、後円部の長さ一八メートル、幅一八メートル、前方部と後円部との差は一メートルである。


写真2 吉窪三号墳

 後円部の中心から東北方向五〇メートルのところに第二号墳、さらに、一七メートル行って竪穴(たてあな)石室のある第三号墳がある。ほかに第四号墳がある。この一帯を馬神古墳群という。腰村の前方後円墳と対峙(たいじ)して、犀川を押さえていた豪族の古墳であったと思われる。

 馬神古墳群の西約六百メートルのところに吉窪城跡があり、この一帯に吉窪古墳群がある。かつて城跡の稲荷社の社地を拡張したとき玉類が出たとの伝承があり、古墳があったといわれている。明治の初めごろ、二二基あった(「長野県史蹟名勝天然記念物」)が、今形を残しているのは五基である。東南の二基は第三号墳第四号墳と呼ばれ、石室がある。第三号墳は石室の長さ約二七〇センチメートル、幅一〇〇センチメートル、深さは埋まっていて確認できない。蓋(ふた)石が数個斜めに落ちこんでいる。第四号墳はここから一四メートルのところにある。石室は第三号墳とほぼ同じである。この第三、四号墳のあるところは山陰で見晴らしが悪く、なぜここにつくられたか謎(なぞ)とされている。