三 郷と荘園

717 ~ 718

 大宝元年(七〇一)の大宝律令により、水内(みのち)郡に芋井(いもい)郷がおかれた。芋井郷は、善光寺町一帯から長野市西北一帯の山地を含んだといわれているので、小田切地区は芋井郷に属したと思われる。

 嘉祥(かしょう)二年(八四九)学問行者によって戸隠寺が開かれた。安和(あんな)(九六八~九七〇)のころ平維茂(これもち)が鬼女紅葉を退治したとき小野平で泊まり、駒(こま)をつないだというイチイの木(市指定天然記念物)が残っている。

 小川荘は、戸隠寺の僧によって開拓され、のちに上西門院御領となった。上西門院は鳥羽(とば)天皇の第二皇女である。鳥羽上皇が最勝寺を元永(げんえい)元年(一一一八)に建てたとき、この小川荘を最勝寺領として寄進され、のちに鳥羽上皇から上西門院に譲られた。天養(てんよう)二年(一一四五)の院の庁下文(くだしふみ)によると、小川荘は大法師増証らの所領であった。鳥羽院が最勝寺を建立するとき、増証が寄進した。最勝寺から下司職(げししき)として清原家兼が来ていた。地元の池田宗里と争い殺されたとき、平維綱(これつな)が家兼からの下司職の譲状があると称して、庄司代として荘務を執行しようとしたので、増証が訴え、元どおり増証が下司としてとどまることになった。その後皇室領から藤原氏へと伝わった。

 保元(ほうげん)の乱(保元元年・一一五六)で破れた崇徳(すとく)上皇に従った平正弘の領地が没収されて御院領となった。正弘は、鬼無里(きなさ)山の一所を油料として寄進しているので、西山に領地をもっていたことがわかる。

 戸隠山は、治承(じしょう)二年(一一七八)ごろ四方の霊験所の一つとされ(『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』)、修験者(しゅげんじゃ)や修験僧が集まる霊場として開かれていた。これらの人びとは、東山道支道が小市を通っていたので、小市から馬神(まがみ)街道を上り小野平の下峠を越えて戸隠に行った。小川荘から漆が年貢として送られている。