四 城館跡

718 ~ 720

 小田切地区には、吉窪城(よしくぼじょう)のほか、富士ノ塔山の砦(とりで)、甲山城(かぶとやまじょう)、旗古城(はたごじょう)、天神山城があり、その他深沢城(推定)がある。いずれも小田切氏の城である。小田切氏は、鎌倉時代の初め佐久郡から地頭として移住し、慶長(けいちょう)三年(一五九八)の上杉氏の移封まで小田切の地を領していた。

、伴野荘も八条院領と院御領であった。これらの諸荘には、平家の勢力がおよんでいた。伴野荘は小川荘と同じく平家没官領となった。大井荘には滋野系の武士が多く住んでいた。その大部分は木曽義仲に属した。義仲は、寿永(じゅえい)二年(一一八三)京を占領、後白河法皇から平家の没官領すべてを与えられた。しかし、翌三年一月義仲討ち死にによりその権利は頼朝に継承された。頼朝は義仲に属した武士を御家人として取り入れた。

 頼朝は、文治(ぶんじ)元年(一一八五)加加美遠光(かがみとおみつ)を信濃守に任じ、その子小笠原長清を伴野荘の地頭に任じた。頼朝は伴野・大井・小川荘などを自由にできる立場にあったので、小笠原氏の入部と同じころ、小田切氏らを西山中へ地頭として送りこんだ。

 承久(じょうきゅう)の乱(承久三年・一二二一)で幕府軍に属し、宇治川で戦死した小田切奥太は、奥郡に住んでいる太郎という武士のことで、小田切氏がこのころすでに小田切に移住していたことを示している。

 以後小田切氏は、室町時代の大塔(おおとう)合戦(応永(おうえい)七年・四〇〇)、「結城陣番帳(ゆうきじんばんちょう)」(永享(えいきょう)十二年・一四四〇)に活躍している。戦国時代の弘治(こうじ)三年(一五五七)二月十五日、葛山城(かつらやまじょう)落城のとき、小田切駿河守幸長(すがるのかみゆきなが)は室賀兵部大輔(むろがひょうぶだゆう)の被官清兵衛に討ち取られた。雄将であったと伝えられている。天正(てんしょう)三年(一五七五)、武田勝頼(かつより)が長篠(ながしの)城を攻め、大敗し、多くの兵を失ったので浪人を召し抱えた。隠れていた小田切民部少輔も四〇〇貫文で召し抱えられた。武具数四〇、乗馬以下四〇人であった。同十年武田勝頼が自殺し、本能寺の変で織田信長が殺されると、上杉景勝が北信に入ってきた。小田切氏は景勝に仕え、同十一年安曇(あずみ)郡仁科(にしな)で小笠原貞慶(さだよし)の兵と戦い、手柄をたて感状をもらうなど活躍した。同十五年、稲荷山城将となった小田切昌安(まさやす)は、桑原の竜洞院に一五貫文の土地を寄進している。慶長三年(一五九八)景勝が会津へ移封(いほう)になったとき、武士は一人残らず連れていくこととした。これより先天正十八年、蒲生氏郷(がもううじさと)が会津へ封ぜられたが、小田切安芸守恒遠(あきのかみつねとお)がこれに仕えている。恒遠は、文禄(ぶんろく)三年(一五九四)の「定納員数目録」に小田切安芸守八六石とあるので同一人と思われる。上杉氏転封前に行き、のちに上杉氏に仕えた。その子孫は現存している。また、のちに旗本になったものもいる。


写真3 天正15年小田切昌安、竜洞院へ寄進(15貫の土地)(竜洞院蔵)