一 神社

723 ~ 725

 元禄(げんろく)十年(一六九七)の松代藩「堂宮改帳」によると、小田切地区は五ヵ村(集落数四九)で、宮四三、堂二五、計六八あり、ほとんどの集落ごとに宮があったことがわかる。宮では伊勢社が七、氏神五、十二森・諏訪社各四が多いほうである。宮で一番大きかったのは、のちに小田切神社となる諏訪大明神で六尺三尺(一八一・九センチメートル)で、ほかは祠(ほこら)のようなもの、森、土ばかりという宮が多い。堂は観音堂九、薬師堂六が多い。建物は宮より大きく二間、三間(三・六、五・四メートル)のものが普通である。村の人びとの集会所であったり、念仏を唱える場所でもあった。今は別に公民館などをつくったので、荒れるに任せている。宮は合社などにより減少し、「神社明細帳」(昭和二七年二九五二)によると二五となった。

 浅間神社 小鍋 富士ノ塔山頂 ①祭神 木花開耶姫神(このはなさくやひめのかみ) ②由緒 昔から本村の守護神。文化(ぶんか)十年(一八一三)浅間(せんげん)神社。ここにお参りすればお乳が出るといわれ、遠く松本や須坂から講を作って参拝に来たという。

 小田切神社 小鍋字国見 ①祭神 健御名方命(たけみなかたのみこと) ②由緒 昔から諏訪社と称し、本村の産土神(うぶすながみ)。文化十一年小田切神社と称する。境内に神明社、八幡社、養蚕社、庚申(こうしん)社がある。飛び地境内神社に十二社がある。氏子数五八戸でこの地方で三番目に多かった。


写真5 小田切神社

 勝生神社 小鍋大川 ①祭神 健御名方命 ②由緒 昔から諏訪社と称した。文化十一年、勝生神社と称する。氏子数一一〇戸で二番目に多くお祭りはにぎやかであった。崖崩れのため大川に移転した。

 三竈(みかまど)神社 小鍋上原 ①祭神 火産霊神(ひやかりのかみ) ②由緒 古来千木村の産土神、四隣の信仰がまことに厚く、お祭りには、虫切り鎌を買いに参詣しにぎわった。寛政(かんせい)三年(一七九一)、享和(きょうわ)二年(一八〇二)に社殿を再建。嘉永(かえい)元年(一八四八)、拝殿を再建。天井は格天井で、近隣の人びとが寄進している。ここにある穴が虫倉山に通じるといわれ、大姥(おおうば)信仰につながる。境内に「善鬼大明神」の石祠(いしほこら)(正徳(しょうとく)四年・一七一四)がある。

 戸谷神社 小鍋栃の木 ①祭神 久那止之神(くなどのかみ) ②由緒 戸隠大権現手力雄命(たぢからおのみこと)とその叔母久那止之神を祭る。山門に経塚がある。大地すべりで境内の大半が崩れ落ちたが、のち再建した。文化十一年、戸谷神社となる。

 水内鎮神社 塩生(しょうぶ)乙 北畠 ①祭神 健御名方神(たけみなかたのかみ) 八坂斗売神(やさかとめのかみ) 事代主神 内県命 ②由緒 むかし内県命が水内(みのち)県を領していたとき、塩生池の丘に住居を定めていた。命の後胤(こういん)塩生某がこのところに宮殿を建てた。のち田村麻呂将軍が再建し、諏訪下社から諏訪大神を勧請(かんじょう)したといわれる。社地崩壊のため、慶長(けいちょう)年間(一五九六~一六一五)に現在の地に移した。文政(ぶんせい)七年(一八二四)、水内鎮(みのちしずめ)神社と称した。氏子は三一八戸で、この地方ではもっとも多かったが、現在は久保の集落だけとなった。御柱(おんばしら)は有名で、村の行事に入れられていた。