二 寺院

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 願生寺 真宗西派 小鍋千木 ①本尊 阿弥陀如来(あみだにょらい) ②山号 徳勝山 ③由緒 寺伝によると、本寺は、手力雄命(たぢからおのみこと)を祭神として神護景雲(じんごけいうん)二年(七六八)勧請(かんじょう)の戸屋山大権現(現戸谷神社)を創建したとき、一二坊をもつ別当寺として建てられたという。そのころ戸屋山奥院に、行基菩薩作と伝えられる二寸八分(約八・五センチメートル)の仏像があった。のち戸屋山大権現が大破し、この仏像は願生寺に移されたが、火災により焼失。当初天台宗であった。承元(じょうげん)二年(一二〇八)、建暦(けんりゃく)二年(一二一二)と二回親鸞聖人(しょうにん)が来山、聖徳太子の御影を刻まれ、また十字の名号を書かれたといわれる。このとき浄土真宗となった。慶長(けいちょう)四年(一五九九)と宝暦(ほうれき)二年(一七五二)炎上、文政(ぶんせい)五年(一八二二)再建した。


写真6 願生寺(千木)

 浄蓮寺 真宗大谷派 小野平 ①本尊 阿弥陀如来 ②山号 鷹野山 ③由緒 寺伝によると、開基は郷士鷹野蔵人丞照重(たかのくろうどのじょうてるしげ)嫡男、西山源蔵重勝(しげかつ)。照重は安和(あんな)年間(九六八~九七〇)、平維茂に属して西山の領主となり、西山姓を名乗り小川荘小野平に居館を構えた。重勝は長保(ちょうほう)二年(一〇〇〇)比叡山に上り、源信僧都(九四二~一〇一七)の法弟となり、天台宗を学び浄蓮坊を授けられた。のち帰郷し一宇を建立し、西照院念仏堂と称した。四世俗名西山源蔵是重は、親鸞聖人が戸隠に参詣したとき、聖人に帰依して法弟となり信栄坊を授与され、真宗に転じた。六字の名号を授与され、天福(てんぷく)元年(一二三三)俗道場を建てた。正応(しょうおう)三年(一二九〇)五世源浄坊が覚如上人から寺号鷹野山浄蓮寺と号することを許され、永禄か天正のころ本山から木仏本尊を下賜されたという。現本堂は文政(ぶんせい)元年完成した。伽藍(がらん)師は鬼無里(きなさ)村山口藤造、欄間の彫刻は長野妻科の山崎儀作の作といわれている。天井に逆に描かれた竜の絵がある。真宗寺院は西山中ではこの浄蓮寺、願生寺、戸隠村の専勝寺の三ヵ寺だけである。


写真7 浄蓮寺(小野平)屋根が急勾配

 三福寺 浄土宗 小渕(おぶち) ①本尊 阿弥陀如来 ②山号 九品山 ③由緒 寺伝によると、元真言宗で最初戸隠村にあり、ついで柵(しがらみ)村(寺跡というところがある)に移り、また本村麻庭の堂平に、そして現在地に移転した。天正(てんしょう)五年(一五七七)僧徳眼開基創建と『小田切村誌』に記されている。本堂は文化五年(一八〇八)着工、同十年に完成した。棟梁は鬼無里(きなさ)村の山口藤造で、藤造はついで浄蓮寺(文政(ぶんせい)元年)、願生寺(文政五年)も建てている。外陣の内法長押(うちのりなげし)の上に横たわる竜の彫刻は見事である。天保(てんぽう)十三年(一八四二)修復している。善光寺地震ではつぶれなかった。過去帳には、この寺の壇家中五〇人が死亡したことが記されている。松代藩主が鷹狩りに来たことがあると伝えられ、そのとき拝領した六文銭の袈裟(けさ)がある。明治六年(一八七三)まで寺子屋の師匠をしていた。同七年七月「小学万綏(ばんすい)学校」がこの寺に開校し明治十六年までつづいた。寺宝として「浄土変相図」(天保十三年)「釈迦涅槃図(ねはんず)」「法然上人(ほうねんしょうにん)絵伝」(文化十三年)がある。


写真8 三福寺

 西明寺 浄土宗 吉窪 ①本尊 千手観音(せんじゅかんのん) ②山号 時頼山 ③由緒 寺伝によると、北条時頼が執権をやめて出家し、西明寺入道と称して諸国を巡回したとき、馬神街道沿いに小庵を建て、千手観音を奉安したので、時頼山西明寺と名づけたという。西明寺は小田切氏、塩入氏によって保護され繁栄してきたが、その滅亡後は衰退し、嘉永(かえい)五年(一八五二)吉窪集落の山手に移転した。昭和八年(一九三三)の大火災で類焼し、同十八年再建した。本尊千手観音を高山寺から譲り受けた。信濃三三番札所の第八番札所で、年間約千人以上の参拝客がおとずれる。


写真9 西明寺

 寛松寺(曹洞宗)は沢ノ入にあったが、地すべりのため、昭和四十七年西長野へ移転した。