二 村の暮らし

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 江戸時代、小田切地区の村には、名主(初め肝煎(きもいり)、宝暦(ほうれき)十四年・七六四、名主に改称)・組頭・長百姓の村方三役が置かれた。深沢村では「深沢村倹約箇条書上帳」(天保(てんぽう)十三年・一八四二)で婚礼・不幸とも日帰り、など決めている。

 嘉永(かえい)四年(一八五一)八月三日、藩主真田幸貫(ゆきつら)の孫が亡くなり、四十九日までを「御中陰中」といって歌舞音曲(かぶおんぎょく)停止の触れ状が村へ通知されていた。しかし、日ごろ何の娯楽もなく、汗水たらして農業に励む農村では、祭り日だけが、労働から解放されて酒も飲め、ご馳走(ちそう)も食べられる楽しい時間であった。小鍋村中組の若者たちは、八月十四日のお祭りに手踊りをしたいと市右衛門に申しでた。市右衛門が十一日から指南して十四日の夜、寛松寺の座敷で踊った。有り合わせの着物を着、かつらは染麻の手製のもので、「小栗判官文の段の踊り」「猫またの踊り」「白川大三郎敵討の踊り」の三曲を、幕も使わず三味線もなく市右衛門の語りでおこなった。さらに九月二十四日の白髭(しらひげ)神社の夜祭に、「太閤記十段目」の芝居をすることにし、柳右衛門が振り付けをし、幸右衛門宅で四、五日前から稽古(けいこ)をしていたところ、祭り前日の二十三日の夜、頭立の作右衛門が来てきびしく差し止めた。

 このことが後日村を回った同心(足軽)に知られ、関係者一同が呼びだされて事情調査を受け、当事者たちと村役人が罰金刑をうけ(市右衛門五貫文、踊りをした若者三貫文ずつ、名主三貫文、組頭二貫文など)、また、止めた頭立にはおほめのことばがあった。

 小鍋村中組の常左衛門は娘と養女の二人を上州(群馬県)玉川宿へ金五〇両で年季飯盛(めしもり)奉公に売った。松代藩では文化(ぶんか)三年(一八〇六)男女がよそへ奉公に出ることを禁止し、やむをえないときは願書を出して許可をもらうお触れが出されていた。常左衛門は無届けで身売りしたことが露見し、常左衛門は捕らわれ、村預けとなった。親類や村役人が、郡奉行所へ嘆願して連れもどしに行った。買い主は行方をくらましていたので、せがれと掛けあい、支度金一〇両、二人が病気のため薬代五両二分、請け人へ三両二分、雑費二両、計二一両を払い、残り二九両を受けとって六月十七日帰村した。二九両は常左衛門の、今までの借金の返済、穀類などの食料の代金、衣類代などの支払いをしたら、残りは一両と銭二〇〇文であった。

 昭和の初め、国見では農家の座敷で活動写真を見たり、新諏訪から浪花節語りを呼んで浪花節を聴いて楽しんだ。