三 山中騒動

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 小田切地区が関係した騒動は、寛延(かんえん)四年(一七五一)の田村騒動、天明(てんめい)四年(一七八四)の山中(さんちゅう)騒動、明治三年(一八七〇)松代騒動の三件である。

 松代藩主真田信安は、藩財政立て直しのため寛延三年(一七五〇)、江戸で田村半右衛門を召し抱えた。田村がとった増税案に反対した山中の一揆は、八月七日赤坂川原に集まり、八日勘定所で藩の役人に願書を提出した。小田切地区の三役人も署名捺印(なついん)している。田村は江戸に逃げかえった。信安が激怒して厳罰にしようとしたが、恩田木(もく)工らが制止して農民の処罰はおこなわれなかった。

 天明三年七月六日、浅間山が大爆発を起こした。そのため天候不順となり、山中の村々は収穫皆無のところも多く、十一月には食料がなくなり、藩から借金してぬかやふすまなどを買い、ようやく年を越した。翌四年十一月二十五日、村々の名主たちが勘定所に呼び集められ、郡奉行らから三年の取りのべ分、拝借金利子を猶予した分を今年の年貢とともに、今年中に皆済せよと申し付けられた。その夜念仏寺村・伊折村の役人が密談し、造り酒屋衆から無心して上納することを発案し、山中の村々へ連絡した。十二日から十三日にかけ、中条村境の沢に鬼無里・日影を除く山中の人びとが集まり、中条の酒屋などから無心し、その夜は赤田村で野宿した。そして翌十四日ニッ柳村幸右衛門宅まで出てきた役人に、願書に要求を書いて提出した。十二月、藩はこの要求のかなりの部分を認める通知を各村に伝えた。翌五年二月から首謀者の逮捕に着手、地京原村の清兵衛を首謀者として永牢とした。

 松代藩は戊辰(ぼしん)戦争(明治元年・一八六八)によって多額の軍用金を消費し、新政への転換によって財政が行き詰まり、藩債をおびただしく抱えこんだ。この藩債償却のための処置で諸物価が騰貴し、贋(にせ)二分金の流通などで、疲弊が極限に達した農民は、上山田の甚右衛門を主唱者として、納税の廃止などを叫んで立ち上がった。明治三年十一月二十五日の夜、上山田村や周辺の村々の農民が松代をめざして行った。これに誘発されて方々に暴動が起こった。西山部の農民は二十六日、上石川や小市の富農の家々を焼き払い、川中島方面へ押し出した。

 小田切地区では、二十六日の夜九時ごろ、小野平の方から出ろや出ろやの声が上がり、笹平辺りでも人声がし松明(たいまつ)の火が見えた。繁から馬神の方へ走っていく人声と松明も見えた。小田切では三〇人ぐらい加わったが、小市に出て善光寺へ行ったか、川中島方面に行ったか分からない。川中島北原付近で、栗林の人が一人死体で見つかり、数人がけがをしたという。国見方面の人びとは、善光寺へ押し出したという。ともかく翌日隠れるように帰ってきて、騒動は知らないと言っていた。小田切地区はこれらの一揆にはいずれも消極的であった。