農産物

733 ~ 734

中世の小川荘のころ、漆(うるし)が都へ送られていた。松代藩は漆の木を保護し、運上銀を徴収していた。寛文(かんぶん)四年(一六六四)、漆の木を書き出させ、枯れたらその脇に植えさせた。同年三月の漆運上に一三石七斗(二・五立方メートル)が計上されており、年次不詳のある年の漆運上は四四三匁(一・七キログラム)であった。麻も多かった。明和(めいわ)二年(一七六五)小鍋村の有高七二〇石余の内訳は田七四石余、畑屋敷五八九石余、麻五七石余で、麻畑が特別に記されている。

 明治初年(『長野県町村誌』、明治八年)繁木村の穀物は大麦二六八石余(約四八立方メートル)、大豆二一六石余、小豆一五二石余が多く、米はわずか八八石余(約一六立方メートル)で、雑穀が主食であった。このため長生きの人が多かった。麻が栽培され、これを原料にして蚊帳(かや)四八〇匹を作り長野町へ売っていた。女の人が冬の農閑期に織っている。塩生(しょうぶ)村は米が三七石余、葉藍が作られて一三〇〇貫(四・九トン)の収穫があり、安茂里へ売られている。蚊帳地は二三〇匹。雉(きじ)も一〇〇羽、紙の原料である楮(こうぞ)は一五四〇貫(五・八トン)とれ、小野平の下峠を越えて柵(しがらみ)村へ売られている。養蚕もおこなわれ、繭が五〇貫(一八七キログラム)収穫されている。昭和十年代どの集落にも麻釜があったが、今はまったく姿を消してしまった。