近世には飢饉がしばしば襲った。もっともはなはだしかったのは、天明(てんめい)四年(一七八四)から六年にかけてと、天保(てんぽう)四年(一八三三)から九年にかけての大飢饉である。当地の詳細は不明であるが餓死者はいなかったらしい。
小田切地区で、最大の災害は弘化(こうか)四年(一八四七)の善光寺地震であった。戸数四七五戸のうち、全半壊一二三戸、地すべりで押し埋まり四四戸、二五一七人のうち九一人が亡くなった。とくにひどかったのは山田中村で、大峰面の崖端東繁の裏山から地すべりが起きた。上端から脚部の沢まで幅約二百メートル、長さ約八百五十メートル、東繁全戸一二戸、その下の二つ石全戸五戸、さらに、その下の集落田中の一四戸のうち一三戸を押し流し、田中の下方一〇〇メートルのところで止まった。一六八入のうち四八人、二九パーセントが死亡するという大被害を出した。千木組は地盤が堅く被害はなく、下小鍋は裏山が崩れ一三戸が潰(つぶ)れたうえ火災が起き焼失、国見組の西の久保は三戸押し潰され、長さ四五メートル、幅二五メートルの池ができた。下深沢は、全戸の地盤が下がり東側に周囲四〇〇メートル、深さ約十メートルのくぼ地ができた。潰れた家の廃材を使って建てた、天井の低い家が残っている。また、最近田中の下方からそのとき流された石地蔵と杉の大木が見つかった。馬神山は、長さ一〇〇メートル、幅一三〇メートルにわたり崩壊、土量二〇万立方メートルで犀川を八〇パーセントせき止めた。川ばたの善光寺道は埋まってしまった。