火災

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明治から平成六年(一九九四)までの火災件数は五四件、被災戸数一一七戸、原因は、失火一九件、養蚕のための火が一九件、提灯(ちょうちん)を藁(わら)などに掛け忘れが三件、取灰、炬燵(こたつ)各二件などが主なものである。その復旧には、村中で木を出しあい、被災者は大工の賃金だけ負担するという慣わしであったという。大きかった火事は、明治十九年(一八八六)上深沢の木炭による火事で一二戸、同三十八年平深沢の失火による火事で一〇戸が燃えた。消防組ができたのは大正になってからで、山間地で水に乏しく、藁(わら)屋根で隣り合っていて類焼することが多かった。昭和八年(一九三三)十一月の吉窪の火事は、こどもの火遊びがもとで三尸を残し一一戸が全焼した。村人は、川中島の里田に稲刈りに行っていた。煙を見て駆けつけたが手の施しようもなかった。