虫倉山の村々にできた私塾・寺子屋は、小川村久木の石坂重三郎が最初で、元禄(げんろく)十六年(一七〇三)といわれる。
小田切地区では、これより六〇年後の宝暦(ほうれき)十三年(一七六三)、繁(しげ)の名主岡村与市が初めて寺子屋を開いた。その子庄蔵があとを継いでいる。以後明治の初めまで、三七人の師匠がいる。この師匠を称(たた)えて門弟の建てた筆塚は二四基みられる。最初の筆塚は文化(ぶんか)三年(一八〇六)に建てた上深沢の実円大徳のものである。 寺子屋の師匠の職業は、農業二一人・神官八人・僧三人・修験二人・医者二人・郷士一人である。農業は名主クラスの人である。世襲で師匠となったのは、水内鎮(みのちしずめ)神社の神官宮坂氏四代、小鍋日方の勝生神社神官安藤氏三代、西繁の岡村氏、沢の入の原山氏、国見の修験吉村氏各二代である。
これらの師匠が教授したのは、書が二三人、読が二二人でほとんどの師匠が教授している。書は師匠が手書きの手本を与えた。孝経・大学・中庸・論語・孟子などの漢文を教授したのは虫倉地域には五塾あり、山田中の宮尾喜兵衛(天保~安政、門弟三〇人)と北畑の轟平右衛門(弘化~慶応、門弟五〇人)の二人が含まれている。また、仏教を教授したのは、喜兵衛と三福寺の真誉治之であり、程度の高い教授をしている。繁の岡村要重郎(天保~弘化、門弟五〇人)は算を、久保の高野柳右衛門は、折り方を教授している。
文武兼修の道場をもった吉窪出身の山岸巻太(素平)は、松代藩に三〇年祐筆(ゆうひつ)として仕えた郷士である。のち天保から弘化にかけ善光寺西町に住んで剣、礼、読、書、謡曲を教授した。門弟一〇〇〇人、安政(あんせい)六年(一八五九)六九歳のとき善光寺本堂東に門弟が筆塚を建立した。