二 文化活動など

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 石田梅岩(一六八五~一七四四年)によって創始された庶民教学心学は、一九世紀初頭寺子屋などに広く普及した。戸倉の中村習輔(しゅうすけ)は、商用で京都に行って、梅岩の弟子手島堵庵(てしまとあん)の門に入り、信州心学の開祖となった。習輔の心学講社「恭安舎」の中に、宮野尾村の轟平右衛門(一八四七~一八五八年の間)がいる。

 また、民衆教化のため心学の講師が巡回して道話の聴聞会を開いた。天保(てんぽう)二年(一八三一)一月十二日、清水春斎が坪根で開催したあと宮野尾、吉窪に行く予定を立てていた。俳諧は盛んであった。千木の願生寺に嘉永(かえい)七年(一八五四)の俳額が奉納されている。選者は、戸倉宿の虎杖庵四世宮本亀守、妻科村新田(長野市新田町)の池田文潮で地元の村人も大勢奉納している。同年国見の小田切神社にも平林村(長野市平林)の堀内蘭喬が選者になって俳額が奉納されている。国見では、戸主三人に一人が奉納した。村内に盛んであったことが分かる。

 明治二十七年(一八九四)宮野尾学術研究会が発足、小田切矯風会、小鍋学窓会などを経て大正九年(一九二〇)小田切青年会となった。昭和十年ごろ小田切女子青年団ができた。