村人たちは、苦しい農仕事の合間に、休養し娯楽をとりいれ、豊作を祈り健康、無病息災を祈って、毎年同じような行事を繰りかえしてきた。小田切地区には、約六十数種あったという。
現在おこなわれてぃる、お庚申(かのい)は二ヵ月に一度、ただし農繁期は休み。お念仏は毎月十五日は女衆、春秋のお彼岸には村中の人がお堂に集まり、真ん中で鉦(かね)をたたき大きな数珠を回してお念仏を唱えて極楽往生を願う。
現在すたれてしまった五月八日のお善鬼さまのお祭りは、神楽が四柱もでで、村中はもちろん新諏訪や柵(しがらみ)など遠くの人も参拝にきた。千木のこどもたちが「鎌かっとくらへ」といって、数センチメートルのブリキの鎌で参拝客のお腹をなで、おさい銭をもらった。風紀が悪いといって大人がとりあげたところ火事になり、元に戻したという。こどもを大切にする虫倉の大姥信仰につながるお宮であることがうなずける。
昭和八年(一九三三)、六年生が直江津へ修学旅行に行った。当時、六年生であった千木のある一人の男の子は、おさい銭の一銭玉を一円拾い、旅行の費用として学校へ八〇銭納め、残りでささあめなどお土産を買ったが、余ったという。
もう一つは、久保の水内鎮(みのちしずめ)神社の御柱である。平成四年四月十二日、氏子三〇戸、小田切園から四〇人が応援にきて御柱二本を引いた。新諏訪神楽保存会から神楽二頭を依頼、観客三〇〇人ほど前後につき、みんなで引いて午後三時無事に立てた。
一八戸の下深沢の小正月(十五日)のどんど焼きは、東西の二組に分かれておこなう。松飾りの巻立がすむと、当番の家で、楮(こうぞ)の棒(長さ三〇~四〇センチメートル、径一・五~二センチメートル)を檜(ひのき)の板にあけた六つほどの穴に差し込み、きりをもむように休みなく二、三人でもみつづけ、煙りが出始めるとそっと吹き、赤くなるとつけんぱやマッチ棒に点火する。このお種火を神棚に捧げ、さらに提灯(ちょうちん)に移して若者一人が組内の各戸にくばる。もらった家では神棚のろうそくにその火をとり、夕食の囲炉裏にその火をつける。組内ほとんど同時にかまどに火がはいる。夕食がすむとこどもたちは、道祖神の前に集まり巻立に火が入るのを待つ。このどんど焼きは昭和三十年前後にすがたを消した。耕うん機や自動車が入り、最愛の牛馬と涙の別れをしたころと重なった時期である。