人口の激減

745 ~ 746

明治十四年(一八八一)の四七七戸、二五七〇人から漸増し、昭和十年(一九三五)には五四四戸、三二三二人とピークに達した。終戦の昭和二十年には疎開してきた人もいて五六六戸となったが、以後減少に転じ、同五十年には三九〇戸、一六五〇人となった。

 これより先昭和四十五年、市道千木線に端を発した地すべりにより、沢の入り・田中・日方の三集落三〇戸が、一部を残して村外に移転している。同五十二年茂菅(もすげ)対岸の段丘上に地蔵平団地が、翌五十三年裾花台団地が造成され、入居を開始した。そのため戸数、人口とも増加した。地蔵平団地(五十五年入居開始)、松島団地(五十七年入居開始)は行政区を茂菅区にいれている。同六十年、社会福祉施設小田切園が開設され、五〇人が入所している。平成七年(一九九五)九月一日現在、五三三戸のうち地蔵平六五戸、二三五人、裾花台九一戸、三一一人、小田切園一戸五〇人を除くと、旧村部は三七六戸、一〇三五人となり、昭和十年に比べ戸数は六九パーセント、人口は三二パーセントに激減した。若者が流出し平成七、八年度の小学校の就学者はゼロとなり平成九年三月ついに廃校となった。

 千木区や上山田中区などに空き家が目立っている。また、村内に居住しながら市内へ通勤する者が多くなった。平成二年度一五歳以上の就業者一〇二七人、うち自宅で働くもの三三八人、市内通勤六五三人、県内通勤二六人、県外通勤一〇人で、就業者の六四パーセントが市内へ通勤している。通勤手段は、自家用車三六一人、バス一四一人、オートバイ六〇人となっている。なお通学者は八三人である。