養蚕は明治初年にはじまり(『町村誌』では明治十四年ごろ)、五〇貫(一八八キログラム)の産繭にすぎなかった。年々増加して明治三十年(一八九七)には養蚕戸数四七三戸、四二〇石(七六立方メートル)の産繭、昭和六年には桑畑が一七八町歩(一七七ヘクタール)、産繭額二万七〇〇〇貫(一〇一トン、七万二〇〇〇円、一戸当たり六〇貫(二二五キログラム)、夏秋蚕は五一〇世帯中四〇三戸、八〇パーセントが飼育していた。家屋のなかいっぱいに飼われ、戦前は小田切村の主要産業であった。戦後の昭和二十八年の養蚕戸数は三三三戸、掃き立て一万四二〇七グラム、産繭額一万二四四三貫(四六・七トン)、一戸平均三七貫(一三九キログラム)であった。平成七年には養蚕農家はたった一一戸、平林・日方で飼われている。長野市全体では一〇六戸、豊栄・東条・西条や信更地区に飼われている。