戦前まで小田切地区は傾斜地で、車の通れる道もなかったので、農作業は、鍬(くわ)・鎌(かま)・しょいこ・もっこや足踏み脱穀機など、馬による運搬や馬耕・しろかきを除けば、もっぱら人力に頼っていた。蕎麦(そば)やきな粉などは石臼(いしうす)で手挽(てび)きをしたり、米つきや、麦の粉挽きは谷間につくられていた水車小屋を使った。小型モーターによる精米・精粉機が二ヵ所にあった。
戦後急速に機械が導入されるようになった。昭和二十八年には原動機として電動機二四台・内燃機二七台、動力機として、脱穀機六〇台・籾摺(もみすり)機三台。昭和三十五年は発動機一三三台、脱穀機は一四七台に増えた。平成二年には機械は大型になった。動力耕うん機三〇四台、農用トラクター動力防除機七七台、動力田植機一九台、バインダー六四台、バルククーラー二台と農作業は機械化され楽になったが、購入費用は無視できない。