芋井地区は近世のはじめには鑪(たたら)・桜・泉平(いずみだいら)・新安(あらやす)・広瀬・入山(いりやま)・上ヶ屋(あげや)の七ヵ村で、すべて松代領であった。慶長(けいちょう)九年(一六〇四)に新安村のうち一〇〇石が飯綱神領に寄進され、松代領の新安村と飯綱神領の荒安(あらやす)村(どちらもアラヤス)とに分離して八ヵ村となり、廃藩置県までつづいた。明治五年(一八七二)の戸籍区ではこの八ヵ村は、第六〇区となり、大区小区制でもそのまま第二三大区第四小区となった。明治九年五月、このうちの鑪・桜・泉平・新安・荒安の五ヵ村が合併して富田(とみた)村となったが、同十五年、鑪・桜・泉平の三ヵ村は再び分離してそれぞれ独立した。分離復旧願には「民情が違って利益が反するため合併の実効があがらない。ただし、新安と荒安は境界が錯雑して分けがたいので、二村をあわせて富田村とする」と記されている。しかし、連合戸長(こちょう)制では、芋井地区七ヵ村は再び「上ヶ屋村ほか六ヵ村」となり、戸長役場は上ヶ屋に置かれた。明治二十二年、市制・町村制の実施にともなって、この七ヵ村は合併して芋井村となった。村名については、古くからの郷名をとって芋井村とし、役場は村のほぼ中央にある上ヶ屋の荒井の堂宇を借用した。