長野市への編入合併

756 ~ 757

飯綱高原の大座法師(だいざほうし)池は江戸時代から下流の浅河原(あさがわら)一〇ヵ村の用水源として利用されており、戸隠からの長野市の上水道も村内を通過していた。また、飯綱高原一帯は長野市民の行楽地であり、昭和初年には、一ノ鳥居周辺が長野市商工会へ貸与され公園化されるなど、長野市との関係は深かった。

 昭和二十九年(一九五四)、上水内(かみみのち)郡平坦(へいたん)部七ヵ村につづいて安茂里(あもり)・小田切両村の長野市への合併が決まり、芋井村でも議会全員協議会や合併研究会を開いて市町村合併について研究をすすめた。当初は中山部四ヵ村(戸隠・柵(しがらみ)・鬼無里(きなさ)・芋井)との合併も協議されたが、結局経済交流の密接な長野市への合併が村会で決議され、集落ごとに研究会を開いて世論の統一をはかった。三月九日に長野市から合併の申し入れがあり、三月十八日に合併申合書の調印がおこなわれた。合併理由書には、「産業・経済・文化・交通等各般に亙(わた)って真に共通するところが多い」と記されている。