明治二十一年(一八八八)九月二十日に上ヶ屋学校で開かれた分合諮問(しもん)会で、新村名についても協議された。葛山村・飯綱山村などの案も出されたが、最終的には「芋井の地名は近年まで当七ヵ村の郷名としてもっとも著名であり、歴史上も明らかである」として、「芋井村」が提案され、全員の賛成を得て決定した。「芋井」は『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』にある古代水内(みのち)郡の郷名の一つである。元亀(げんき)元年(一五七〇)の武田信玄の飯綱明神寄進状には「広瀬荘南郷之内伊毛井(いもい)村」があり、天文(てんぶん)十年(一五四一)の上杉景勝の寄進状にも「芋井のうちおもてひら」の地名が記されている。江戸時代のはじめころまで荒安付近に芋井の地名が残っていたのをとって村名としたのである。
なお、「広瀬」は平安時代の久安(きゅうあん)二年(一一四六)の『成勝寺(じょうしょうじ)文書』、「入山・上ヶ屋・鑪(たたら)・桜」は天文二十二年の『下諏訪秋宮造宮帳』、「荒安・泉平」は慶長(けいちょう)七年(一六〇二)の『川中島四郡打立帳』が文献上の初見である。