広瀬荘

760 ~ 761

弘瀬荘とも書く。平安時代末の久安(きゅうあん)二年(一一四六)に、僧行智によって崇徳上皇御願の成勝寺(じょうしょうじ)に寄進され、「年貢四丈白布百端(たん)」を負担している。その後、保元(ほうげん)の乱によって上皇が讃岐(さぬき)に流されたためか、文治(ぶんじ)二年(一一八六)には後白河法皇領となっている。中世には佐久から移住したと伝えられる滋野姓の落合氏が領知していた。天正(てんしょう)六年(一五七八)の「下諏訪秋宮造宮帳」によると、広瀬荘は、「落合領中広瀬之庄七郷]として、「入山之郷・上野(うえの)之郷・広瀬之郷・上屋(あげや)之郷・北南之郷・桜之郷・田多良(たたら)之郷・吉沢・新曾」が記されている。吉沢は茂菅(もすげ)地区の字名、新曾は新諏訪と考えられている。したがって広瀬荘の範囲は芋井地区を中心として、戸隠村の上野から浅川の北郷、長野の新諏訪・茂菅におよんでいた。広瀬荘には、桜氏・上野氏・鑪氏・立岩氏などの武士がいて、「山一族衆(やまいちぞくしゅう)」とか「葛山(かつらやま)衆」と呼ばれ、落合氏がその中心であった。落合氏の本拠地は入山村の岩戸集落で、岩戸の古名は落合だったという説がある。岩戸には馬場・牢屋敷・町・横道などの地名が残っており、昭和のはじめまでは集落の上下二ヵ所に屋敷跡があり、土塁や堀も残っていたという。