葛山(かつらやま)城は、葛山山頂にあった山城で、裾花(すそばな)川をへだてて南の朝日山城に対する。弘治(こうじ)元年(一五五五)、上杉謙信が朝日山に対して築いた向城(むかいじろ)だともいわれる。城主は葛山衆一族の落合氏だったと伝えられる。山頂の本郭(ほんくるわ)は東西約三十六メートル・南北約二十四メートルの方形で、東・北・西の三方に数多くの郭が連なっている。南側と東側がとくに険しく、西北は尾根つづきに鑪(たたら)を経て飯綱・戸隠方面へ通じている。弘治三年二月、武田信玄は、残雪のため越後勢の動きがとれない時期をみて、この城を急襲した。城兵は奮戦したが、二月十五日に落城し、小田切駿河守(おだぎりするがのかみ)など多くの戦死者を出した。北方の姫谷は城内の女子が身を投げたところと伝えられ、本郭中央に旧城主を祭る石の祠(ほこら)がある。白米城の伝説も残されており、蔵屋敷の跡からは今でも焼き米が出る。中腹に静松(じょうしょう)寺があり、住職にあてた信玄の書状が知られている。長野市の史跡。