飯綱明神の神官千日太夫の屋敷跡で、荒安の里宮のかたわらにある。伝承によると、元亀年間(一五七〇~七三)荒安に里宮を造営したとき、その東側に冬季の住宅を建築したという。戦国時代、安曇(あずみ)郡森城主の一族仁科盛清か来て千日太夫の跡を継ぎ、以後仁科甚十郎を名乗って神領を支配した。敷地は約三百坪(九九一平方メートル)で廏(うまや)や長屋があった。第二次世界大戦後次第に廃墟(はいきょ)となり昭和六十年(一九八五)に取りこわされた。近くにある同家の墓地には、寛文(かんぶん)・延宝(えんぽう)年間(一六六一~八一)などの年紀をもつ墓塔が並んでいる。