慶長(けいちょう)九年(一六〇四)に、新安村の一八八石余のうち、一〇〇石が飯綱明神に寄進されて、神領は荒安村、松代領八八石余は新安村と書き分けるようになった。しかし、呼び方はどちらも「あらやす」で新安村は享和(きょうわ)三年(一八〇三)の『郡村仮名付帳』・明治十五年(一八八二)の『村誌称呼傍訓調』などはいずれも「新安(あらやす)村」となっている。しかし、しだいに「しんやす」とも呼ばれるようになり、明治十九年の『地字帳』では「新安(しんやす)村」となっている。
飯綱権現の神官仁科甚十郎が神領を支配した。松代藩では、飯綱神領を善光寺領・八幡社領(更埴市)とともに支配三ヵ所と呼んで、藩領に準じた扱いをした。松代領の新安村は一般に日影村とも呼ばれた。荒安村には古くから飯綱神社の里宮をはじめ本地院や神主仁科甚十郎の屋敷があった。村のなかを戸隠表参道が通ってにぎわい、東西二軒の茶屋があって名物の団子を売っていた。そのようすは「善光寺道名所図会(ずえ)」にも描かれている。安永(あんえい)四年(一七七五)の戸数は一八、明治七年には三〇戸・六〇人であった。尾根上に位置するため水田はない。