葛山(かつらやま)合戦前後、芋井は戦乱のために荒廃したといわれる。文政(ぶんせい)ごろの上ヶ屋村明細帳は、「甲越の兵乱につき、人民思ひ思ひに遁(のが)れ散り、元亀(げんき)年中ごろまで、御田地多く荒れ所に罷(まか)りなり」と伝えている。おそらく他の村でも同様だったであろう。
寛文(かんぶん)年間(一六六一~七三)の鑪(たたら)村の惣高帳をみると、農民は六人で、うち二人はともに三三石一斗二升三合余と端数までほとんど同じ高を所持しており、他の四人もいずれも三六石八升余と同じである。これは旧領主の鑪氏が会津へ去ったあと、残った農民が入って平等に分割した名残ではないかといわれる。鑪では近年までこの六戸が交替で村役をつとめた。
江戸時代の芋井は荒安のほかに、松代領は、新安(日影)・鑪・桜・泉平・上ヶ屋・広瀬・入山の七ヵ村であった。このうち、上ケ屋村は平・荒井・京田(きょうでん)の三組に、広瀬村は上・元の二組に、入山村は影山・犬飼・清水の三組に分かれていた。傾斜地の散村で枝村が多く、「信濃国絵図仕立帳」の「添目録」には、三一村の枝村があげられている。軍足(ぐんだり)村は承応(じょうおう)元年(一六五二)に開発された。新田開発は、入山村・広瀬村で盛んにおこなわれた。
松代藩の知行割りは、入山村は藩の直轄地、新安村の給人は海野氏ひとりで、他の藩領の村々はそれぞれ数人の藩士の給地になっていた。上ヶ屋には高札場があり、口留(くちどめ)番所が置かれていた。中沢家は本陣と呼ばれ、藩主や大検見(おおけみ)回村のさいの宿舎となった。
飯綱山を控えた芋井地区の村々をみると、入山村では、寛文四年(一六六四)の「本田新田高辻帳」によると漆運上銀は九六匁余で、松代領内では多い方である。上ヶ屋村の山年貢は三九俵で、松代領山中では田之口村・北郷村・中牧村についで多かった。これは飯綱麓原(ふもとばら)をもっていたためであった。